#お墓についてⅡ

信じる宗教は無いのですが(ご先祖は天台宗らしい)、お墓を作る慣習には何のためらいもなく従い作りました。現在は墓じまいが多いと聞いております。確かに、空いている墓地が多いですね。

私が作ったお墓には今は誰も入っておりません。これからの事ですが、お骨を入れようが入れまいが、残った人たちの自由です。形としてお墓が在れば良いと想っております。ほったらかしても良いですし、自由です。無くなっても大丈夫です。(^_-)-☆

私の父親が自分の親(祖父、祖母)が亡くなった時には、長く病に罹っており、尚且つ貧乏のどん底で(超極貧)葬式やお墓の事どころではなかったようです。住んでいる処にはお墓はありませんでした。私の父親が亡くなっても、お墓は在りませんでした。

ご先祖のお墓はあると聞いておりましたが、極貧の中、お金も探す気力も無かったそうです。 

父は極貧でありながら生活保護を受けることを潔しとせず残り少ないご先祖の遺物(満州から引き上げ時にほとんど満州に残してきたそうです)を切り売り(その中でも売値が高かったのは家系図だったそうです)しながら水に近いお粥を食べながら生きながらえていたそうです。私の直ぐ上に兄が居たそうですが、栄養失調で亡くなったそうです。赤ちゃんの写真が残っていますが、可愛い顔をしていて、片言の物言いも可愛かったそうです。父が亡くなってから母が市役所へ生活保護を申し込みに行ったそうです。そこで市役所の担当者から「一発やらせろ、愛人なれ」と言われたそうです。当然、母は断り早々に逃げ帰ったそうです。私は三歳ぐらいの時です。それから何度か姉と私は母に連れられて浜辺に行き、母に母の着物の袖に石を入れるように言われて、私は遊びだと想い喜んで石を集めて母の着物の袖に入れました。姉は「いやや!」と言って走って逃げ帰りました。私は「なぁ~に?」。その後は、母と私は帰ったようです。もう一度は、別の日に母と私一人で浜辺に行き、母に言われて石を遊びと想って母の着物の袖に嬉々として入れました。母が私を泣きながらギュウと抱きしめました。「なぁ~に?」記憶が定かでないのですが、今、私は生きていますから海には入らなかったようです。その後は一切生活保護や母子家庭の保護を受けずに、姉は中学へ行かずに母と一緒に懸命に働き生活してきたようです。姉の中学校の先生が何度も家庭訪問して来たようです。私は「あのおっさんは何者??」と想っていましたね。「・・・ようです」と表現しましたが、私の特技でもある鈍感力で極貧が理解できておりませんでしたね。

母と姉が朝早くから夜遅くまで内職(内職にたどり着くまで紆余曲折あり)をしており、私も手伝っていましたが、何の疑問も抱きませんでした。当然、勉強をしなさい、宿題をしなさい、復習、予習をしなさい等々は言われたことがありません。でも、成績は良かったです。自慢です。(^_-)-☆ 私が私の家庭が極貧だと理解するのは中学三年の時です。それも自ら理解するのではなく、母から涙ながらに怒られながら言われたからです。別途、この話しはしますね。

 話しを戻しますね。それから住んでいる処にお墓ができるのは、父親が亡くなってから20年ほど後に亡兄が作りました。ご先祖のお墓は在ったのですが、遠隔地だったのでそのお墓はほったらかしでした。亡兄が言うのには、長くほったらかしているので既にご先祖のお墓は無くなっているだろうとの事でした。

私が半世紀超ぶりにご先祖のお墓を探しにご先祖の土地の市役所に行って尋ねたところ、直ぐに解かりました。!長年放置していたのに直ぐ分かるとは!驚きましたね。

現地(お墓)に行って、またまた驚きました。墓石が見当たらなく、木や竹や草が茫々と茂り小さな山が出来上がっておりました。小山は、誰彼なくゴミを捨てて出来上がったようです。それから兄が取り敢えず何とか整備しましたところ、墓石が5個ほど出てきましたね。5個ほどと云いましたが、その他砕けた墓石のようなものがあり、判らないので始末したようです。

申し訳ない。慣習に沿い「合掌」。

先日、そのご先祖の墓地を綺麗に整備しました。

今後、ご先祖のお墓がどうなるかは分かりません。私が生きている限りは見守りますが、その後は知りません。強制もしないし束縛もしないし感知しません。

後々の人達の自由です。

当然、お墓が無くなっても大丈夫です。(^_-)-☆