#プーチンさんの親の顔がみたい

この一週間、あれやこれやと多忙で老体にはキツい日々でしたね。最大のイベントであります兄の納骨が終わりました。89歳、かずえ年で90歳、卒寿と云うらしいですね。・・・ところで、終わりましたで良いのかな??済みました??納骨なので、お墓に骨を納めましたが良い??・・・前文から変えないといけませんね。(>_<)

世の中もあれやこれやとありましたので、あれも言いたい、これも言いたいと想っていましたが、想うそばから忘却です。・・・「忘却とは忘れ去ることなり」という有名な言葉?があります。菊田一夫さん原作の「君の名は」の一節だそうですが、「何なんだあれは」と、兄は当たり前のことを言っているセリフがバカバカしいとブツブツ云っていましたね。昔、母も兄も良くない輩(悪い奴)のことを言うときに「親の顔が見たい」と云っておりました。戦中の食糧難で私のもう一人の兄は私が生まれる前に栄養失調で亡くなったそうです。本当に非常にかわいい子だったと母も兄も云っていました。姿形だけでなく、ものの言い方も可愛く、片言で憎まれ口のような事を云ってるのが可愛かったそうです。お客様が来た時に云う憎まれ言葉にお客様も本当に可愛いと笑っていたそうで、たびたび「けんかならこい、はだかでこい」と玄関で言ってすぐに奥へよちよちと引っ込んだそうです。

戦中、戦後の食糧難の時に、兄は目の前にある食べ物(畑に栽培されているサツマイモ)を夜に行って盗もうとしたそうですが、どうしてもできなかったそうです。

「盗んで生きながらえるより死んだ方が良い」と。

農家に行って少しでも食べ物を分けてもらおうとなけなしの着物と交換してくださいと言うと、「着物なんか要らない、なんぼでも有る」確かに当時は誰でも服や着物や貴金属を持って行って食べ物と交換してもらっていましたから農家にはそういう物が溢れていたそうです。そこで若い娘さんや若奥様や奥様方が交換する物が無いので操の提供で交換を云うと、大変喜んで食べ物をくれたそうです。ですから、男の兄が道端の芋の蔓(つる)でも良いからと云って哀願しても「豚にやるからダメや」と断られました。農家の情けの無いやりたい放題に、89歳で亡くなるまで農家の人間を恨んでいましたね。

父親は誇り高かったそうですが、(そうですが、と書きましたが、私の3歳の時に亡くなりましたので、私は覚えていません。ただ、いつも寝ている人が居るなぁとはかすかに映像で残っています)身体が弱く甲斐性無しでした。言葉使いが少し悪かっただけで「腹を切れ」と病身でよろよろと追いかけてきたそうです。転居して住んでいた地方の言葉で、そんなに悪い言葉ではなかったのにです。刀は売り払って無くなっていましたので、包丁を持って追いかけてきたそうです。それもぼろぼろの包丁で、切られたら痛いだろうなぁと必死に逃げたそうです。そんな父から何とはなしに伝えられたものが在ったようです。私が常日頃云っている親から引き継いでいるDNA、遺伝子です。